2015年東大五月祭で起きたこと

さて、このブログの読者には、下記にまとめられている4年前の出来事をご存じの方も少なくないだろう。(こうしてまとめられていたことを、私は先ほど初めて知った)。

https://togetter.com/li/827768

そろそろ当時の成り行きとその後について話す時期に来たと思うので,以下に記す。

 

当時の流れ

講演会当日まで

2015年5月17日、東大の五月祭で、東京大学行政機構研究会(官僚を志す学生が入る団体らしい)が野田聖子の講演会を企画した。講演に「少子化の解決に向けて」というタイトルが付与されていること、また2014年に自民党PTが、代理出産を含む「第三者の関わる生殖技術」の合法化に向けた法案を作成していたことから、それに関連した内容になるであろう、またその様な内容を期待しての人選であろうことは容易に推測できた。

 私は自分のツイッターアカウント「代理出産を問い直す会代表者」を通じて、このような人選を東大という場で行う事の危険性を指摘した。なおこのとき、私は既に東大に籍はなかったが、自らのアカウントに、自分が大学教員であることは記していた。

 そのツイートに対し,企画した「東京大学行政機構研究会」の学生たちから驚きの反応が生じた。まず私が批判を論じた直後、彼らは私に対し「UT(注:東大のこと)の新しいオモチャ発見www」といい、その後「ヤバイ人がくる」、「ヤバイ団体がくる」と私あてにリプライをした。また私のツイートをリツイートし、関係者内に流して、野田聖子講演に関して問題が生じているらしいという意見を共有していた。もちろん、それらは全てツイッターで私から見ることのできる形で行われた。

 その後、私のツイッターにリンクを張ってあるHPやら、恐らくググったのやら何やらで少し状況が分かってきたのか、数日後には、最初の「オモチャ」発言は消されたが、「ヤバイ人」というのは3日間くらい残っていた。しばらくすると、「ヤバイ人」発言も消されていたが、「炎上のかほりがする」というリプライは最後まで残されていた。

講演会当日

 当日、私が会場に行くと、受付の学生は何やら目を見合わせていたので、恐らく既に私の事は周知していたのだと思う。そして学園祭のオープンな講演会にもかかわらず、「録音・撮影禁止」、かつ「関係のない質問は控えて下さい」といかにもものものしい態勢で講演が始まった。また会場では講演が始まってほどなく、携帯電話の電波が入らなくなり、リアルタイムでツイートをすることが困難となった。(私は本郷キャンパスに2013年度まで勤めていたが、その間、携帯の電波が使用できなくなるという経験は一度もなかったので、もしかして学生たちは予め妨害電波の準備をし、中継されないよう妨害する手はずを整えていたのかもしれない)。

 さて、私も研究者である。講演を徒に攪乱する目的はなく、野田聖子の論じた内容が、全く生殖技術に関係のないものであれば、何ら発言をするつもりはなかった。けれども予想通り、野田聖子卵子提供について話したので、質疑応答の時間に入った時、一番に手を高々と挙げた。

 興味深いのは、この後である。司会は私を確認した後に、少しだけ待ってから、他の男子学生を当てた。もしかしたらサクラとして友人に準備してもらっていたのかもしれない。彼が私を避けようとしているのが分かったので、最初の学生の質問が終わってから、「では次の質問」と言った時に、今度は大声で「はい!」と言って手を挙げた。私が声を出したせいもあるのか、その他には誰も手を挙げず、5秒くらい静寂が続いたのちに、司会が、仕方なくーーものすごく、仕方ない、もうこれ以上は無視できないーーという苦々しい表情をしながら、私を指名した。

 こうして私は無事に野田聖子に質問をすることになった。そこでのやりとりは「炎上」することもなく、むしろ端からは、非常に和やかな内容に見えたかもしれない。それでも、野田聖子の著書を出し、この記述はどういう意味なのかと詰め寄ったので、まあ何らかの含みのある人間だとは思っただろうが。私と野田聖子との応答は、5分くらい続き(それでも表面上は極めて和やかだった)そして質問を終えると、司会の男子学生が、(ああ、ようやく解放された、大事にならずによかった)という、満面のにこやかな笑みを浮かべた。

 彼の子どもじみた笑顔を見て、私は、先日からの溜まった怒りも相まって、やはり彼らに何かを言わねばならないと感じた。それゆえ、終了後、司会者のもとへいき「どう?炎上しなかったでしょう。あなたたちのツイートは「オモチャ発言」から見てたよ」と言うと彼は「それは私どものグループの人ではないと思います」という。そこで「その発言者が、私のツイートをリツイートをして『行機民』(彼らのサークルの人々の事らしい)に見せたことも、それを消したと報告したのも見てるよ。どの人か特定してもいいよ。みせようか?」(私はPCとiPadを持っていたので)「私は「ヤバイ」人間だった?「ヤバイ団体」だった?この発言(ヤバイ人と述べたツイート)は、あなたたちの誰?」と述べると、集まっていた他の学生達もみな静かに下をうつむいて「今後はこういうことの無いように気を付けます」などと言い始めた。

 ありきたりの言い訳を述べ終えると、学生は黙り込んでしまったので、私から、今回の人選の問題(controversial な法案が出ている中で何の知識も無く人選をしたこと)や、ツイッターは公的な場であのような発言をするなら場をわきまえろ、そもそも東大という名前があることでこれだけ人が集まるのだから、自分の置かれた立場を認識した上で物事をすすめろ」と言った趣旨の事を伝えた。しかし説教をしているうちに、なんだが若者をいじめているような気持ちになってきたので、大人として最後に「いいイベントだったよ。今後も頑張って」(野田聖子は結局、生殖技術の事は殆ど述べなかったので、私にとっては、まあ負担の少ないいいイベントだった、という意味だが)。といいその場を去った。

 ただし今思うと,彼らにこんな優しい言葉をかける必要など全くなかった。普段、大学教員として勤める者の習慣として、つい自分の学生に接する際と同じような温情が生じてしまったのだろう。

講演会を終えて

 その後私は、忘れないうちにと、野田聖子講演内容と自分の行った質疑応答内容をひとしきりツイートしたあと(中継するつもりが叶わなかったので)、主催者サークルのツイッターアカウントに「政治に携わるのは色々なことがあるだろうけど、これを経験として今後の飛躍を期待しています」などと残しておいたが、その時確認すると、先方が先日から残していた最後のツイートや、私に関する彼ら同士の会話、私をウオッチしていたであろう学生たちの書き込み、フォローはすべて消えていた。さらに数日後には、彼らのアカウント(https://twitter.com/asr31st)そのものが削除されていた。
  なお、この当時、私は東京大学行政機構研究会とはどのような団体かと思い、関連するフェイスブックアカウントを閲覧していた。その際に、偶然の手違いで「参加リクエスト」を送ってしまった。(これは完全なミスである)。するとなんと,当該フェイスブックアカウントから「ブロック」されてしまった。もちろん私は「リクエスト」を間違ってクリックしただけで、メッセージを送ったり、そのFBの内容について公の場で述べると言ったアクションは起こしていない。この対応からは、FBに直接アクセスされたと知っただけでパニックに陥り、ブロックという行動に出た、当時の学生たちの慌てぶりが伝わってくる。

今になって思うこと

2016年の強制わいせつ事件との連続性

以上が当時の成り行きである。上記の内容を私個人のFBで書いたところ、様々な反応があり、多くの人が「東大」というラベルを悪用する人々に対し、様々な憤怒を抱えている事が伝わってきた。その一つに対し私は以下の様に応えた。

 

そうです。彼らが生殖はもちろん、普通に生きることの重みといった事について、全く想像力がないことに驚かされました。説教をしたときの彼らはすごく大人しく、また「ききわけのよい」子たちで、恐らく小論文でも書かせれば、通り一遍の無難な事を書くのでしょう。今回の件では、そのように要領よく立ち回っている学生たちの本心を目の当たりにして呆れるとともに、ああこれが真実なのだな、こういう人たちが、いかにも弱者の味方といった表情を装って政治に携わっているのだな、と思わさせられました。特に最初の「オモチャ発言」は、彼らが友人同士で共有している優越感ーー東大の政治サークルのオレ様に逆らうなんていい度胸だな、オレ様たちで遊んでやるぜーーという彼らの自己陶酔を見て、このような学生たちが官僚として、政治家として世に送り出されるのかと恐怖さえ感じました。今思うと、その場で公にリツイート、リプライをして、彼らの意見を公に晒してやればよかったと思います。こうした活動は私の研究の本筋ではないので、エネルギー温存のために何もしなかったのですが、この子たちには、それくらいの事をした方がむしろ後々のためになったと思います。

 

 「オモチャ発言」について2019年の今思うのは、彼らの中に2016年に生じ、のちに『彼女は頭が悪いから』という小説のモデルとなった東大生5人による強制わいせつ事件と、同じ発想が共有されていることだ。彼らにとって「東大生」以外の他者は(まして女性は)人格を持たない道具に過ぎず、彼らはそのような他者を利用する特権を持つと信じ込んでいる姿が、この発言からも読み取れる。

 事後的に分析すれば、強制わいせつ事件の加害者たちの発想は,何も加害者の特殊性に根ざしたものではないことを、彼ら(東京大学行政機構研究会の学生たち)の発言から、読み取ることができよう。強制わいせつ事件を起こした学生は理工系だったため、大学生とはいえ性差別や人権への意識が希薄であった可能性もあるが、この研究会の学生にそのような言い訳は通じない。彼らは東大内でも人文社会系として、差別や人権問題にセンシティブであるはずの存在だ。しかしまさにそのような学生が、これほどあからさまな差別的視点を表出していたのである。

何をすべきだったか

 一連の出来事をツイッターやFBに書き込んだ後、私から彼らに対し更なる行動を取ることはなかった。その最大の理由は、上述したように自分のエネルギー温存のためであるが(当時私はまだ任期付き雇用であり、自分の業務に専念する時間が必要だった)、実はもう一つの理由がある。

 上記の「ヤバい」発言以降、学生たちがツイッターでやり取りしている様を見ていた時、彼らのアカウントから、本企画に関係する学生の、学年と出身高校、人によっては実名を把握することができた。(私が自分で調べた訳ではなく、彼らはそれを自らアカウントに掲載していた)。それらの情報から私は、この会の関係者の中に、私の高校の後輩を含め,私と比較的近い関係にある学生が含まれることを発見した。細かい事は省くが、その繋がりから、私には別のルートからこの学生達にアクセスすることが、簡単にできそうであった。ならばいずれ、もう少し時間が経ち、彼らのパニックが去ったのち、あるいは何か別の機会で彼らに会った際に、この件を伝えることが出来るだろうという気持ちが生じていた。それが、とりあえず当時、この件で動きを止めた大きな理由である。

 けれども今になると、やはりこの当時、もっとSNSを活用して彼らに語りかけたり、彼らにアクセスして、きちんと問題を述べておいた方がよかったのではないかとも思っている。彼らがその後、問題の本質を理解したとは考えられないので、もしかしたら別の場所で同じ暴力を繰り返していたかもしれない。彼らの中に巣くい、後の強制わいせつ事件とも連続性を持つような、東大生の特権意識を指摘することが、研究者の正義として必要だったのではないかと思ってしまう。

 実行委員の彼らはーー私も自分で書いていて馬鹿げていると思うがーー本当に、「東大生である自分はこの世で最強の存在」と思い込んでいた。彼らは「東大」と「その他」を切り離し「その他」は全て軽んじても良い存在と信じていた。さらに彼らが私のツイート当初に、短絡的に示した侮辱的反応には「女性団体 ≒キモい、感情だけで動く、頭の悪い団体」という図式があったことが推測できる。

 私は、第三者の関わる生殖技術の問題については、理論・現状把握のいずれにおいても、日本で有数の見識を持っているつもりである。実行委員の彼らは「代理出産少子化を防ぐことにはなり得ない」という私のツイートに対し、鼻で笑うツイートを返していたが、仮に彼らと公開議論をすれば、どちらが知識・見識において勝っているか/劣っているかは明らかだった。今思えば、それを申し込み、公の場で、彼らに自分たちの未熟さや、女性団体に対する差別的な視点を持つ事実を気づかせる機会を設けるのが、ベストな方法だったと思っている。もちろん彼らは断るだろうが、それならば彼らが「社会問題に興味を示すふりをするだけで、専門的な知識は敢えて排除した事実」を公にすることもできた。

 実際のところ、彼らが真にこの問題に興味を持ち「野田聖子が進めていた法案に問題があるというのなら、何が問題なのか勉強会で話して欲しい」という申し込みをしてきたら、喜んで引き受けるつもりであった。2015年の五月祭の頃、私は既に、弁護士会政治団体から依頼され、この問題について話した経験を多数有していた。学生団体からの申し出であれば、無償で応じていただろう。

 しかし何しろ彼らは、私をブロックするという対応しかしない有様だから、恐らくこれ以上、何を告げてもダメだろうという諦念も持っており,その通り、彼らは何もしなかった。それどころか彼らは、企画に関する全ての情報を消し、自らが実施した講演会に対し、あたかも何の批判や問題も存在しなかったばかりか、あのイベントさえ存在しなかったかのように振る舞う措置を取った。すなわち最初から、何も起きていないのだと装うことに決めたのである。

 

ーー「何も起きなかった」。これこそまさに、あの若者たちだからこそ選んだ結論だと思わさせられる。彼らは「世界で最強のオレ様」というファンタジーに生きており、それを守るには、事実を根底から消し去る、そのような手段しか残されていなかったのだろう。

アメリカと欧州の代理出産に対する議論の違い

渡英し、2019年8月20日~23日開催の欧州社会学会に参加中。知人のイタリア人研究者がオーガナイズする代理出産に関するセッションへの参加が主な目的。今日がセッションの初日で、オーガナイザーがイタリア人である影響か、主な報告者はラテン系の国々の人々。欧州に留まらず、メキシコ人の報告者もいた。

 

当初は私も報告を打診されたが、欧州社会学会で日本に関する内容を報告するのもどうかと思ったので、報告者としての参加は控えた。でも報告していてもよかったかもしれないなあ、と後になって思わさせられる。

 

ところで今日、メキシコ人研究者による報告を聞いて、一つ気になることがあった。先日のブログに書いた様に、渡欧の1週間前、私はマンハッタンの米国社会学会に参加しており、そこでもメキシコや欧州の代理出産に関する報告を聞いた。しかし米国社会学会では、どの報告者も現状分析に留まり、代理出産に関する政治的な意見を述べる人はいなかった。この学会は、ジェンダー論や人種差別では強く政治性を前面に出しているのに、代理出産に関しては、どの報告者も揃って政治的発言を控えている。

 

それに対し、今日参加したセッションは、もともと代理出産に関する現状を批判的に整理・議論する目的を共有していたことも影響しているのか、報告者はみな一定の政治性をもって問題を語っていた。メキシコ人の研究者もその例に漏れることなく、メキシコ内の問題を批判的に説明していた。

 

学術的には、先日の米国社会学会でのメキシコに関する発表も、極めて優れたものだった。また先日書いた様なウクライナカザフスタンの報告は丁寧に整理されたものだった。これほど客観的に優れた内容ならば、報告者たちは確信を持って、代理出産の政治的問題を指摘できるはずだ。それなのに米国内の誰も明確に指摘しなかったのは、米国の中に、代理出産を明確に否定する意見を述べにくい、何らかの政治上の困難があるためだと考えさせられる。

 

米国では中絶権と代理母の権利が結びついて語られているため、一般的なフェミニスト(=中絶権擁護派)が代理出産を批判することが難しい。また近年では代理母の利用が、ゲイ男性の家族形成の権利と結びつけられているせいで、代理出産に否定的な意見を述べることは、あたかもゲイの権利を侵害する、差別主義者の様に撮られてしまう。(実態は「リッチな男性が貧しい女性を金で買う」という、典型的な女性差別なのだけれども)。

 

アメリカでは政治的に代理出産を語りづらいという問題は、以前、デボラ・D・スパーにより語られていたのだが、今回の件により、その状況がますます深刻化しているのだと認識した。そしてアメリカ内の議論が停滞している中、米国外で議論が進みつつあるのを目の当たりにさせられた。

 

これまで日本の代理出産議論研究を進展させるため、アメリカの議論を辿ってきたけれど、現状把握はともかく、理論的な側面では、アメリカから今以上に何か有益な議論を得られるようには思えなくなってきた。この問題に関しては、アメリカの人文社会系研究が、国内政治に囚われすぎて、国外の議論から取り残されてしまっているように感じる。

 

ウクライナ・カザフスタンなど旧ソビエト連邦圏の代理出産産業

2019/08/10~13にマンハッタンで実施された米国社会学会(ASA)大会に参加した。私が出席したのは、生殖技術に関する実証研究に関するセッションに加え、科学知、社会理論のセッション。

 

代理出産に関して興味深かったのは、ウクライナカザフスタンに関する調査*1。体調を大幅に崩し、意識がぼんやりする中での参加だったので、うろ覚えかつ聞き間違いもあるだろうが、忘れないうちにここに書き残しておく。

 

周知の通りウクライナグローバル化した生殖アウトソーシングの場となっているが、最近、スキャンダルが起きたことから、状況が変わりつつある。その一方で、順調に代理出産産業を進めているのがカザフスタン

 

昨今の生殖アウトソーシング先として、最も日本人に知られているのはロシアだろう。ウクライナカザフスタン、そしてジョージアなど、旧ソ連の国々の代理出産に対する態度は、基本的にロシアと連動している。それは医師達がロシア語を介して情報を共有しているため。

 

ウクライナカザフスタンも、人工授精型代理出産が可能。ただし代理母となる女性は依頼者(ヘテロ法律婚カップル)の親族に限る。またウクライナの体外授精型代理出産の場合、生まれる子供は少なくとも依頼者カップルの一方と遺伝的に繋がっている場合に限る。カザフスタンは遺伝的繋がりは問わない。

 

ウクライナはクリニックが代理出産の斡旋から携わる場合が多いが、カザフスタンのクリニックは斡旋には携わらない。

 

と、ここまでは把握したものの、カザフスタンウクライナより上手くいっている理由に関する肝心の結論は聞き逃してしまった。ものすごく体調が悪かったので……。

 

その後の質疑応答で得られた知見として、近隣国のチェコは、代理出産の斡旋や広告は禁じているが、代理出産の実施自体は認めている。そのためウクライナの業者が世界中のクライアントに広告・斡旋し、実際の代理出産チェコで行われる例がある、とのこと。

 

上記を聞いても,特に驚きはない。これと同じ事は既にインドで生じている。インドは外国人による代理出産を既に禁止しているが、それまでに成長した代理出産斡旋業者が、インドを市場のハブとして世界中から依頼者を集め、実際の代理出産はインド以外の場所で行っている。

 

最初はネパールがその実施場所だったが、地震の際に外国人依頼者たちが、代理出産で生まれた子だけを救出し、代理母を放置したことから問題視され、ネパールでもその後代理出産の実施が禁止されるに至っている。

 

日本に目を転じると、同じ現象は卵子提供の現場で生じている。日本人女性を東南アジアや米国など、卵子提供の可能な国に渡航させ、そこで卵子を収穫し(こう書くと私が敢えて攻撃的な言葉を用いているようだが、卵子提供産業ではしばしば「Harvest」という言葉が使われる)、日本人依頼者を含め,アジア人の卵子をほしがる依頼者に提供ーー実態は「販売」している。

 

上記のように、ウクライナの現状は構造的には特に新しいものではないが、ロシアやウクライナ代理出産に関して、その背後にある旧ソビエト連邦の国々の関係を知ることができたのは大きな収穫だった。

 

また、今回の報告を聞いた印象では、現在、隆盛を誇っているウクライナ代理出産産業の将来はあまり明るくないように思える。タイやインドの生殖アウトソーシングが禁止されたように、ウクライナも早晩、生殖アウトソーシングの門を閉ざす可能性が高そうに思える。ただし今の雰囲気では、国内の無償代理出産は、合法のまま残りそうだ。

 

*1:ボストン大学のAlya Guseva氏の発表によるもの。今、ウェブサイトで調べた限りでは,今回の報告内容はまだ論文にはなっていない。出版され次第入手して、正確な情報を得たい。

第二回『代理出産ー繁殖階級の女?』上映階@大阪

お世話になっております。柳原です。
直前になりましたが、2月18日に大阪府立大学 I-site なんばにて、映画『代理出産ー繁殖階級の女?』の上映階を実施致します。
ご都合が合えばどうぞお越し下さい。

詳細は以下の通りです。

【開催日時】
2017年2月18日(土) 13時30分〜16時30分(13時開場)

【開催場所】
大阪府立大学 I-site なんば(南海なんば第1ビル2階)
https://www.osakafu-u.ac.jp/isitenanba/about/map/#access_diagram

【概要】 
代理出産は、早くから21世紀の重要な論争の一つとなってきました。 この方法は、女性、子ども、そして家族にとって複雑な問題をはらんでいます。アメリカのNPO団体により制作された「代理出産―繁殖階級の女?」は、一般的に「善行」と信じられている無償の代理出産を軸に、アメリカ国内の代理出産の問題を描き出すドキュメンタリー映画です。この映画の上映を通し、改めて代理出産の問題に目を向け、生殖補助医療の現状について考えたいと思います。

【プログラム】
ドキュメンタリー映画代理出産―繁殖階級の女?」上映(約1時間)
コロキウム「生殖補助医療の現状と不妊治療―孤立化する不妊治療の現状について考える」

【講師】
柳原 良江(東京電機大学 助教代理出産を問い直す会代表)
長沖 暁子(慶應義塾大学 准教授、第三者の関わる生殖技術を考える会)※予定

【コーディネーター】
浅井 美智子(大阪府立大学 教授、女性学研究センター)

【主催】大阪府立大学女性学研究センター・科研基盤研究(C)「非配偶者間生殖の新しいフレイム構築に関する研究」

【協賛】代理出産を問い直す会


以下は大阪府立大学のウエブサイトの告知ページへのリンクです。
https://www.osakafu-u.ac.jp/event/evt20170218_2/

第一回上映会を終えて

去る9月19日に映画『代理出産―繁殖階級の女?』の第一回上映会を実施しました。第一回は誤字脱字を含めた字幕の不備や、私自身の報告のあり方などを考え、いつも緊張するのですが、今回は割と和やかな雰囲気で実施できて、とてもいい時間となりました。

当日頂いた質問から、今後の調査が必要な分について現在調べております。まずは映画にあった事例の把握とその背景にあるアメリカの文化的背景の確認をしています。特にアメリカの母性神話のあり方は、私のこれまでの研究の対象外だったので、一からの勉強です。新たなテーマを見つけるのはやりがいのあることですが、実際に調査を進めるのは、なかなか骨が折れます……。でもまあ、頑張ります。

その他、研究に関してやることは沢山あるものの、最近、会の活動を少々サボっていた部分があるので、久々にHPのカスタマイズなども進めています。これまでの分の修正に加え、情報量を増やすつもりです。特に海外の動向について、いくつかの誤解を元に、外国では概して代理出産が推進されており、もう代理出産合法化の動きは止まらない、という流れで解釈されている向きもあるので、その辺の情報を積極的に伝えなくてはと思っています。

中でも押さえるべきは、生殖ツーリズムのうち、外国における代理出産アウトソーシングの問題です。あっせん業者は、東南アジアなど第三国であたかも簡単に実施できるかのように宣伝していますが、実際にはそれほど簡単ではありません。外国人を対象とした代理出産を可能とする国は、かつてはインド、タイが有名でしたが、それらは外国人による代理出産で多くの問題を抱えた結果、現在では外国人による代理出産を禁止しています。インドやタイの規制を受けて、新たに開拓されたメキシコやネパールもまた、ごく最近、外国人の代理出産を禁止するに至りました。業者は現在、別の国を開拓していますが、同じ事の繰り返しでしょう。現在、私が知っている限りで、法律上(依頼者にとって)安全に代理出産を実施できるのはカリフォルニア州のみです。しかしご存じの通りその金額は膨大です。そして高いお金をかけても子供を得られない例も少なくありません。多くの人は想定していないのでしょうが、子供が障害を持つ事例はもちろん、流産に終わるばかりで子供を得られないという例もあります。他者の卵子を用いた妊娠では様々なリスクが示唆されており、もはや博打のような部分も多いのです。テレビに出てくるセレブは何の問題もなく子を得て幸せそうに見えるかもしれませんが、その裏で、彼らがどのような代理出産を何回実施したか--その子が障害児の中絶を繰り返した結果ようやく出来た子なのか、着床前診断を行った結果なのか--は誰も知りません。

このサイトに来る方の中には、代理出産を夢の方法と捉え、依頼を検討している方もいるかと思います。私はその方法自体を問題視しており、反対意見の根拠は様々な論文で示してきましたが、既に依頼を考えている方にとって、それらの批判は心に届くものではないでしょう。しかしそういった方であっても、せめて伝えたいのは、社会に流布している代理出産像には、少なからずファンタジーが含まれている、ということです。代理出産の業者たちは、セールストークでそれらの利点を謳いますから、そこでは幻想が最大限に増幅されます。自らの生涯に大きく影響するであろう不動産や金融商品を購入するとき、多くの人は、先方の甘い言葉を疑い、購入上のリスク、購入後のリスクなど最大の注意を払いつつ検討していると思います。それがなぜ代理出産卵子提供では、ごく簡単に購入に踏み切ってしまうのでしょう?自分だけは問題が起きないと思うのはなぜでしょう?これらの生殖技術では、これまで妊娠する女性の身体的リスクはもちろん、子供の科学的な安全性も立証されていません。代理出産に関連して、今後、生まれた子供にどれだけの医療費がかかり、どれだけの時間と労力が必要になるか、誰も知らないのです。あっせん業者の側は、いったん子供の受け渡しが済んでしまえばビジネスが終わりますので、生まれた子はもちろん、子を得た人の将来までは関与していません。そのように無責任な体制にある業者らのセールストークには、もっと疑いと注意深さを持って臨んで欲しいのです。そして自らの経済的なリスクはもちろん、子供の被る問題も考えたとき、この方法が果たして自らの人生にどれだけのインパクトをもたらすかを、冷静に認識して欲しいと思います。

マスメディアで代理出産の美しさを語るセレブは、たとえ代理出産の実施中、または実施後に問題が起きたとしても、それらの多くを金銭で解決出来る「ビリオネラー」だということを忘れないで下さい。特にあなたがそれほど裕福でなく、アメリカ以外の安価な場所への代理出産を考えなければならないならば、その時点で、経済的に代理出産の問題をカバーできないリスクを負っている事を認識して下さい。確かに中にはうまくいく人もいるでしょう。その人達は運がよかったのです。けれども必ずしも全ての人がうまくいくわけではありません。そして代理出産の実施中は順調に進んでも、業者の手を離れた後になって問題を抱えることもあるのです。代理出産という方法が、少なくとも現状では、様々な側面で不確定な「博打」であること、そしてとりわけ子供にとっては、金銭でもカバーできないリスクを与える事を認識して頂ければと思います。

金森先生の訃報

5月26日に東京大学金森修先生がお亡くなりになりました。61歳でした。

金森先生は、かつて「問い直す会」の研究会にも快く登壇して下さりましたし、生殖技術に関連して重要な著作を多々残された方ですので、この場を借りて、関係する皆さんにお伝え致します。以下は訃報記事のリンクです。
http://www.asahi.com/articles/ASJ5W5S0HJ5WUCVL01Q.html


私と金森先生は、「問い直す会」以外にも、東京大学のプロジェクト「死生学」で何度かお仕事させて頂きましたが、もっともお世話になったのは、2013年の日本生命倫理学会大会で、私の企画したセッションに登壇して頂いた時です。

このセッションは、それまで散発的に批判されつつも、女性同士の「人助け」の認識枠組みに留まり、そこにある問題を免責されていた代理出産卵子提供を、明確に「収奪」そして「暴力」へと配置する試みでしたので、当時まだ若手だった私にとっては、開催に勇気が必要でした。

それを成功させる上でのバックアップとして、金森修先生に(そしてコメンテーターとして小松美彦先生、市野川容孝先生)ご登壇頂きました。これら諸先生方の助けもあり、セッションは無事に終了しました。

その後も私は代理出産と収奪をテーマにしたセッションを開催しておりますが、最近では、代理出産を暴力とみなす認識が普及し、以前よりも明らかに声を上げやすくなってきたのを感じます。

金森先生は、生命に関する政治的な問題に対し、ご自身の膨大な知識量の下、淡々と、しかし確実に批判をなさる方で、世俗化された生命倫理学の業界では、余人を持って代えがたい存在でした。まだまだお若く、そして今も進みつつある問題に対し、今後も積極的に発言して頂くべき方でした。

惜しい方を亡くし、残念でなりません。
金森先生のご冥福を、心より、本当に心よりお祈り致します。


柳原良江

映画に関わってくれているCJ君と障害児の教育について

今日は生殖技術とは直接の関係はない内容です。

映画『卵子提供ーー美談の裏側』や、もうすぐ完成する代理出産の映画は、英語監修としてCJ君という男性が関わってくれています。ニューヨーク市郊外に住む彼とは、私の研究とは関係のない文脈で知り会い友人になりました。たまたま私のプロジェクトに関心を持ってくれて、英語監修を引き受けてもらっています。

そして偶然なのですが、彼は野田聖子の息子のような、またはそれよりも深刻かもしれない重度の障害者です。生まれた時に生じた脳出血により、左手の数本の指以外を動かすことができません。その指も曲がっており、一般的な手の動きは不可能です。普段は電動車いすで生活しています。身体的な自由度は野田聖子男児よりも低いと思います。喋る聞くなどの意思疎通は問題なく出来ますが、脳の調子は万全ではなく、十分に周囲の状況に反応できないため、車の免許を取ることは許されていません。その他、内科的に様々な問題を抱え、今も日常的に薬を服用しつつ生活しています。しかし彼のご母堂はとても聡明な方で、親一人子一人、経済的に極めて厳しい暮らしを余儀なくされながらも、彼にできる限りの教育を受けさせました。彼はNY州立大学を卒業し、今はジャズの評論家として活躍しています。

さて、私自身はこれまで障害者問題を直接扱うことはなかったのですが、CJ君の状況、そして最近では野田聖子の息子さんの置かれた状況を考えると、やはり色々と考えるところがあります。彼女はいったい産んだ後、何をしているのだろう?もちろん私はジェンダー的に軌範化された母役割を押しつけるつもりはありません。しかし彼に一番近い存在として、野田聖子は息子に何を与えているのだろう、または何をしたいのだろう、と考えさせられます。必要なケアはお金で解決している、そのために仕事をしている、と主張するのかもしれません。また障害を持つ子が産まれても、女性が仕事が続けられるよう法整備をするべく進めている、というつもりかもしれません。でも育児ってお金をかけることだけを指すのではないですよね。言うまでもなく、他者の力を借りることそれ自体は問題ありませんが、子育てで他者の力を「借りる」こと、他者と「共同しながら育てる」ことと、自分が親の役割を放棄することは別の問題です。

私は何度かCJ君のお母様ともお話したことがあります。彼女は、彼を育てる上で、物理的、精神的はもちろん経済的にもとてもご苦労なさったようで、それ故蓄積したであろう強い苦悩を、これまでにも会話の端々から感じ取りました。時には、ご自身の運命、息子を襲った偶然の不幸を儚んだ事もあるかもしれません。しかし強い抑圧を抱えていらっしゃる中にも、彼のお母様からは、一貫して彼への強い愛情を感じます。「母の愛情」という言葉ではいささか陳腐なので、でもう少し丁寧に言えば、自らの子を、彼をこの世界でかけがえのない存在として慈しむ気持ち、彼がいかなる状態であれ、その存在の中に尊厳を認め、尊重する、そんな眼差しがあるのを感じます。

今のCJ君の日常を見ていると、ごく普通に外出すること、ごく普通に人々と接することでさえ、いかに大きな労苦を伴うか認識させられます。先日、ニューヨーク市郊外でCJ君と食事を共にし、別れ際、彼をつれて帰りの電車に乗るための駅に向かった時、私は生まれて初めて、車いすの、なおかつCJ君の様な重度障害の人が、たかが5分の距離を歩くだけのために、いかに予想を超える多大な不自由を強いられているかを認識しました。そんな生活も影響しているのか、彼は日常的に体調が優れないこともしばしばあるようです。身体的な障害のみならず、普段の日常的なストレスから健康面に影響を受けやすいようです。健常者なら些細なものに過ぎない刺激も、彼にとっては体調を崩す原因になりかねません。

CJ君の様に、成人し、子供時代と比べて心身共に安定してからもこうです。まして発達途中の幼少期は、さぞかし強いストレスに晒され、日常的に不安定な状態に置かれていたことでしょう。それを適切な福祉サービスを見つけるなど物理的にサポートし、さらに精神的にも支えてきたお母様のご苦労は想像するに余りあります。そして、その彼女の努力が、ともすれば限られた世界の中でしか生きられなかった彼に、一人前の成人として必要な知識、教養を身につけさせ、結果的には、極めて知的な専門性を伴う仕事に従事する、CJ君の現在をもたらしたのです。このような親御さんの聡明さをなくしては、現在のCJ君が暮らす、知的な快適性は産まれなかったと思います。恐らく理性を閉じ込められた環境で、本人にも理由の分からないような苛立ちを抱えつつ日々を送る生活を余儀なくされていたことでしょう。

一方、CJ君に会う度に考えるのが野田聖子の育児の状況です。第三者には彼女のブログを通じ推測するしかできませんが、それで知りうる限りでも、日常的にストレスに晒されている子を、体調を考慮せず連れだし大衆に晒す、意思疎通の手段を与えられていないなど、素人ながら、当の子供の現状に少なくない負荷を与えていることは想像に難くはありません。そして現在の、様々な点で成長の手段を剥奪されている現状が、今後、彼の行く先にどのような苦難を与えるかと思うと、気の毒でなりません。

不妊カップルが生殖技術にエネルギーを注ぎ込み、産まれた後に育児への情熱を失ってしまうという話はよく聞きます。野田聖子も、産むことがゴールになり、いざ産んでしまうと、障害を持つ子を育てるだけの気力が生じないのかもしれません。他人の卵子を使ったことが、彼女の子への認識にいかなる影響を及ぼしているのかは分かりません。しかし如何なる理由であろうとも、産まれた人にとってはその人がこの世で唯一の親です。お子さんが、この後、適切な愛情と教育を受け、できる限り快適な環境を獲得できる事を切に願ってやみません。